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    読経がはじまつた。皆話をやめてその方を向いて坐り直した。

    高間家の先祖はもと、川上の小藩のお抱医であつたが、明治初年の廃藩と同時に医をやめて、此の河原町に移住した。高間家に残つている古ぼけた一葉の写真によると、それは老後の殆ど死の一年前位の肖像ださうであるが、一人の容貌魁偉な、真白な髪をたらした、眼の柔和な老人が見える。これが医から農に転じた人であるが、何故彼が永年家の業であつた医をやめて鋤鍬を手にするやうになつたか審つまびらかでない。はげしい時代の変遷の中で様々な人間の浮沈を見て過したことが彼にそのやうな心境に達せしめたのか、それとも他のやむを得ない事情があつたのか、あるひは何よりも平凡を愛する性癖が強かつたのであるか、一切不明である。だが、はじめは乞はれるまゝに近所の人達の脈はとつたこともあると云はれているし、又、対岸の河原町にこれも古くからの医家があつて、そこからの圧迫が随分はげしく、遂には誰に頼まれても脈はとらなくなつた、ともつたへられている。

    房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつているのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしている、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つていた。が、今彼の感知しているものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしているが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしている、温い、柔い、――

    と気のない返事をした。

    彼は先だつて房一から全快祝ひに贈られたセルの上下を、仕立下したばかりのものを着こんでいた。夏からふた月あまり寝こんだとは云へ、日焼けの浸みこんだ黒い皮膚の色は容易にとれないと見えて、今もそれが真新しいセルの、明い地色と際立つた対照をなしていた。

    土手に立つている男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家している鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしていてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――

    「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」

    「ウシ!ウシ!」

    今度はかるく甘えた、羽毛でくすぐるやうな調子があつた。房一はざぶりと水を顔にぶつかけただけで立上つた。

    と云つたまゝ、盛子は房一の顔を見てくすりとした。そして、ばさばさ音をたてて大きくひろげてみせた。それは神官の着るやうな袍はうだの指貫さしぬきに模したものだつた。おまけに、ボール紙で造つた黒い冠、笏しやくの形をした板切れ、同じく木製の珍妙な沓くつだのいふ品々が揃つていた。

    「一つ着て見せたらどうです?高間さんにはきつと似合ひますよ」

    「すまんでしたな、長話をして」

    後で馬がいないと云ふので騒ぎだつた。

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